戦時中、新明工業の前身にあたる『挙母(ころも)貨物自動車運送』と『加茂自動車工業』は戦争に必要な車両を生産していました。敗戦した1945年からしばらくは乗用車の製造が禁止されていましたが、新明工業は解禁される時が必ずくると信じて生産体制を強化。見事に予想は的中し、1949年に製造が解禁されました。その後の自動車産業発展の波に乗れたのは、当時のぬかりない準備があってこそでした。
1955年に日本は高度経済成長期を迎え、好景気へと突入しました。名神高速道路、東名高速道路が開通し、それに合わせるようにマイカーブームが到来。新明工業は、乗用車の生産量を増加させたトヨタ自動車の生産設備を支え急成長しました。しかし、それで油断することはありません。自家用車や物流トラックの整備需要が高まることを見据え、整備事業にも積極的に投資。この読みが見事に的中することとなりました。
1973年に原油価格が高騰するオイルショックが発生。その影響はガソリン価格の高騰や排出ガス規制の強化など、自動車産業にも及びました。新明工業も、60億円台に達していた売上が40億円台にまで下落するなどピンチに。しかし、仕事が減ったことをチャンスと捉え、トヨタ自動車の生産ラインへの協力を強化することで、後の競合優位性につながるノウハウを蓄積していきました。
バブル経済で各社が過去最高売上を記録する中、新明工業は3つの新しい挑戦を行います。それは、海外へ輸出する車両にオプション用品を取り付ける「海外架装」と、トヨタ自動車の販売計画に合わせた巨額の設備投資、そして、オイルショック以降ストップしていた人材採用の再開です。この挑戦を見事に成功させ、1985年に154億円だった売上は6年後に約2倍の271億円に。貪欲に成長を求める姿勢を崩さなかった結果でした。
バブル経済が崩壊するとクルマは嘘のように売れなくなりました。そこで新明工業は「シンメイ」「スリム」「強靭」の頭文字を取った『SSK作戦』を打ち出します。『SSK作戦』とは、売上の確保に加え、製造にかける時間を効率化するなどして経営基盤を整える作戦です。阪神淡路大震災や極度の円高などが起きた厳しい時代でしたが、それでも赤字転落を避けられたのは、この作戦のおかげでした。また同時期に生産設備の自動化といった新しい挑戦の一手も打つことで、先行き不透明な時代への準備を整えました。
2008年にリーマンショックが発生。アメリカの大手自動車メーカー『ゼネラルモーターズ』が経営破綻に追い込まれ、日本ではトヨタ自動車が赤字に転落し、その影響を受けた新明工業も創業以来初めての赤字となりました。しかし、発展途上国への進出や次世代自動車の事業部立ち上げなどが実を結び、2013年には経営状況を回復。リーマンショックの他にも消費税の増税やアメリカ同時多発テロなど景気に悪影響が及ぶ事態に見舞われた時代でしたが、先駆けた挑戦で会社を存続させたのです。
2011年3月11日に東日本大震災が発生しました。トヨタ自動車が、復興支援のために一部の生産拠点を東北へ移したことを受け、新明工業は『新明東北株式会社』を設立し、営業拠点としての活動をスタートさせました。単なる営業所ではなく子会社化したのは、“地元に根付いた企業”として震災復興に深く貢献するためです。培ってきた技術力と営業力で、経済の観点から復興支援の一翼を担っていきました。
新型コロナウイルスの大流行と米中貿易摩擦の影響で部品の入手が困難となり、新明工業の受注量は減少しましたが、余ったリソースを社内業務や事業のDX化に投入。対面と電話が中心だったコミュニケーションツールをチャットアプリへ移行し、部門によって分かれていた社内システムを統一するなど、DX化を進めていきました。また同時期には非接触・非対面で車の試乗ができるショールーム『SowZow』をオープン。前代未聞のピンチをチャンスに変えるため、新しい一手を打っていきました。
100年に1度の大変革期と呼ばれるこれからの時代。
先人たちから受け継いだスピリットを胸に、新しい挑戦を続け、
新時代のモノづくり屋としての地位を確立していきます。