こんにちは。新明工業 人事広報室です。
前回のシンメイの設備づくりに引き続き、今回はもう一つの柱である自動車事業の歴史についてご紹介していきたいと思います!
~昭和初期~
当時、日本を走るクルマは外国製のものばかりで、国内ではクルマの便利さや価値が広まっていない時代。近藤鍈三(のちの2代目社長)は海外で走っている未来の乗り物、「クルマ」に大きな憧れを持ちました。
「夢のような乗り物であるクルマに関わりたい!」
「クルマが普及したら、故障で動かなくなったお客様のクルマを助けたい!」
国内ではトヨタさんもクルマ作りをしていない時代に、日本で先駆けて整備事業を立ち上げたのです。
ところが、1939年(昭和14)に第二次世界大戦がはじまり、クルマは軍事物資として強制的に取り立てられる対象になってしまいました。
国内では物資が不足し、修理の仕事なども無くなってしまったのです。
戦争直後は整備をするクルマも、クルマを作れる会社もない時代。
GHQの厳しい統制が敷かれ、焼け野原を走るのは米軍のジープと大型のアメリカ車ばかりでした。
厳しい時代の中、シンメイは必死にお客様のご要望に応え続けていきました。
戦時中海に沈んだ自動車部品を引き上げ・修理・磨き・塗装したり、戦争で生き残った乗用車をトラックに改造・販売も行ったのです。
現在の特装車製作である「はたらくクルマ」の製造や「旧車のレストア」のルーツとなりました。
~数年後~
辛く悲しい戦争の終戦から数年後、1949年(昭和24)、自動車業界に明るいニュースが飛び込んできました。
GHQによる「自動車の生産制限」が解除。
国内の各メーカーが新型車を相次いで発売されました。
クルマの所有率が増えるきっかけとなり、1951年(昭和26)には車検(一般市民所有車)が義務付けられたのです。
今日の車検制度の基礎ができあがった歴史的な出来事となりました。
同年10月には愛知県自動車整備振興会が発足し、シンメイは振興会発足当初からお手伝いをさせていただいております。
当時のクルマは故障が多く、整備を通じ地域の方々のクルマのお医者さんとしてご愛顧いただけるようになりました。
1960年代には、国内の自動車保有台数は1,000万台を突破。
トヨタさんは、増え続ける工場の大型車(トラック等)の整備でお困りだったそうです。
シンメイは、トヨタさんのお困りごと・地域の皆さまのご要望に応えるため、整備工場を相次いで立ち上げました。
地域の皆さまに支えられ、日本トップクラスの規模、入庫台数まで成長できたのです。
「夢のような乗り物であるクルマに関わりたい!」
「クルマが普及したら、故障で動かなくなったお客様のクルマを助けたい!」
近藤鍈三が思い描いた夢がようやく実現できたのです。
1970年代、「お客様にもっと喜んでいただける整備を提供したい!」と試行錯誤をしていました。
シンメイは「乗用車車検にかかる時間」に注目。
2~3日かかる時間を1日に短縮し、お客様の愛車をいち早くお返しすることを考えたのです。
自動車部品商社様に部品の当日出荷にご協力をいただいたり、社内の作業待ち時間短縮などにチャレンジしました。
1972年(昭和47)、日本初の「1日車検」を陸運局立ち合いのもと成功することができたのです。
また、1974(昭和49)年には大型車の1日車検のサービスも全国に先駆け開始し、整備業界では大きなニュースとなりました。
個人のお客様にも、法人のお客様にも評価いただける、日本一の整備が提供できるようになったのです。
整備で培った技術を活かし、シンメイでは他社ではマネできない商品・サービスがたくさんあります!
モーターショー等で展示される、
カットモデル(エンジン、ミッションなど)の制作。
トヨタ博物館様をはじめ、数々の旧車のレストアを担当。
「レストアといえばシンメイ」と旧車の愛好家からはご評価いただいています。
戦後から培ってきた特装技術を活かし、
「交通規制コーン自動設置回収車(ロボコーン)」
を共同開発し、1993年(平成5)のトヨタ技術開発賞を受賞。
お客様に評価いただける商品・サービスを提供できることは、私たちのかけがえのない財産となりました。
シンメイの自動車事業は、創業以来、長年培ってきた技術力が自慢です!
個人のお客様から企業様のニッチなお困りごとまで何でもお任せください!
次回はシンメイのモノづくりのこだわりなどをご紹介していきます。